top of page

土手のぼりました、のぼらなかった人もいて、タニやんはそうでした。きっと「土手の上からはな、どこに立っていても川面が見えてたんだろうな。でもあんまり見てなかったな、みんな息切れしていて。階段もあったけど、その隣の草ボーボーの斜面をのぼるときに履いていた靴の中には、靴下の中には足、うっすら汗ばんでてグッ、グッ、グッ、グッと、交互に出す足が、身体を少しずつ、持ち上げて、斜面をのぼりきると目の前に」広がった河原の風景は「これ。見てよ」と言って柴田がテーブルの上に差し出したスマホの画面の中には、土手に生えた草むらの上で転げ回ってじゃれ合うムーちゃんと杉山さんがいて、姿は見えないがすぐに柴田のものだとわかる「ひっひっひっ!」という甲高い笑い声が聞こえると、台所で洗い物をしているシノザキさんがつられてクックッと小さく笑ったのを視界の端にとらえたムーちゃんが慌ててテーブルに身を乗り出して「だめだめ!恥ずかしい!」と言ってスマホの画面を両手でおおったので、タニやんに見えていた河原の風景は、ムーちゃんの重ねた両手になった。いまはスマホをすっかりおおうことのできる大きさがあるムーちゃんの手は、昔はもっとずっと小さかった。というか無かった。小さすぎて無かったということじゃなくて本当に無かった。無かった頃がある「その手が?」と言って立ち止まり、かたむけた黄色い傘から顔をのぞかせてこちらを見上げる朔太郎に、ムーちゃんも足を止めて振り返り「そうだよ」と答えると、朔太郎はどこかあわてた様子で歩調を早め、手を繋ごうと右手を出してきたので私は手に持っていたトートバッグを右肩にかけなおして左手を空けてあげる。その左手に小さな指でおそるおそる触れてきた朔太郎が繰り返した、声に出していたかどうかは思い出せないが「この手が?」という質問をなだめるように握ってやると、ぎゅううと強く握り返した朔太郎はすぐに、どれだけ力を込めて握ったとしても質問の答えは返ってこないと直感する。それかぎり質問の形を取ることをやめて、かわりに「ムーちゃんの手が無かった頃にも、ムーちゃんの手がまるっきり無かったはずがない。」という仮説を立て、その仮説を立証できる力学を自分で見つけ出すことに決めた。朔太郎は誰にもこの決心を伝えたことはなかったし、伝えるための言葉をまだ持っていなかった。むっつりと黙り込むだけの「サクちゃん。いま何考えてるの?」と歩調をあわせ少し腰をかがめて尋ねるシノザキさんに向かって「こうゆう時は何を聞いても無駄よ。」と説明するムーちゃんにとっても、黄色い傘をゆらゆらさせながら隣を歩いている朔太郎にとっても、こうして今、5月も終わりごろになると梅雨の季節が近づいてきて雨がちの日が続いていたが、朔太郎はまだ「梅雨」という言葉を知らないので一粒一粒の落ちてくる水滴を見ている朔太郎。ああ、なんて可愛い。お前がいま!何かを見ている!「何を見ているの?」と懲りずに尋ねるお前の目は、土手にのぼったことのある、あれは誰の目にも連日の雨で増水した川の色は濁った灰色で、下流には両岸にまたがったコンクリートの水門が、いまはその口を開けて轟々と川の水を飲んでいる」という一文がふいに目に入ったから思わず振り返ったのだろう、お前は遠くから、土手の上に突っ立っているその呆けた表情は、いつまでもそこにいると思っているだろうけど、そうする間にもだんだんと伸びていく影は、向こうのバーベキュー禁止の看板にもうすぐ触れそうだ。」っていうだけじゃまだ駄目だ、反証がいまにも聞こえそうな「ああ、今日も日が暮れていくなぁ」みたいな感想しか持てないよ、それじゃいつまでたっても水門だ。川になれてないじゃない。」馬鹿。」と動いたようにみえた唇は油淋鶏をほおばった油でピカピカと光っている、それはカメラのフラッシュ、は届かないくらい遠くの土手の上、に突っ立っている、あれが俺だった!と、毎日腰を抜かして驚いていたような賑やかな日々も過ぎ去って、上流に見える水門からは次々と川の水が吐き出されている。」土手にのぼった朔太郎が、いつか文字を覚えたならばノートに書きつけることになる文字列は、いまはまだ目の前の風景に散りばめられていて、それが眩しくて何度も目を瞬かせていた。

bottom of page